はじめまして、りんごです🍎
【はじめまして、りんごです🍎】
”徒然なるままに、自由に”
ほぼ生きづらさのはけ口として綴っていくつもりですが、
他者からの反応があると嬉しいです。
(5歳から書道を続けていて、19歳の3月に師範を取得しました。
なので、たまに字を書くことがあるかもしれません。)
現在、日本の大学に通う3年生でミュンヘン工科大学に交換留学しています
【大学生】ミュンヘン工科大学でのとある1日。【ドイツ留学】#Vlogmas🎄#Day3
というわけで、
初めましてなので自己紹介をしてみようかと思います
しかし、私はこの「自己紹介」が苦手です
自己理解が浅いのでしょうか
昔から自分を多く語らない性格でした、たぶん。
好奇心に加えてチャレンジ精神も旺盛で、0.1秒のやりたいに忠実に熱量を注いできた、
そんな幼小中高時代だったな、と振り返って思うわけです
でも、大学生になってそんな生き方に迷いが生じてきたのです
大学入学当時の目標は、1年間で知り合い1000人増やすこと。
当時は、SNSが浸透してきた頃で周りの子達は高校生のうちからTwitterにガシガシ画像を載っけてる子もいたのですが、まあ如何せん真面目な性格とでもいましょうか、いい子ちゃんとでも言いましょうか、当時私の行動指針は青春の充実を心の底では羨ましいなと思いながらも、学校や習い事の先生や大人に気に入られることが優っていましたので、卒業までSNSとやらには無縁だったわけです。
それが卒業と同時に解放され、自分の個人情報をネットに晒す怖さと葛藤しながらも、進学先の情報がFacebookのグループで更新されるとのことで登録が義務になったわけです。
まあ、それはそれは私の視野が拓けたわけです
これまでは、地方の学生をやってきて勉強そこそこに書道に没入し、九州では私のことを誰もが知るくらいには結果を残してきた。
そこになんの迷いもなかったわけです
(なぜ私はこんなにも書道に夢中になっているのだろう)
(書道でなぜ一番になりたいのだろう)
(なぜ展覧会であの子に負けたくないのだろう)
(私にとって書道とは何なのか)
ここで私は、没入すること、夢中になることの怖さを知ってしまったわけです
大学生にもなると、いろんな人がいました。いろんな人に出会いました。
いろんな生き方があることを知り、いろんな選択肢があることを知りました。
話が行き当たりばったりで申し訳ないのですが、
まあ初めましての自己紹介をしまくったわけです、大学一年生の頃の私。
なぜだろう、知らず知らずのうちに
「 私は宇宙が好きです。」
この一文が定型化されていました。
今振り返ってもよく分かりません
でも、このおかげで自分に#宇宙というタグ付けがされたわけです
そういうわけで、私の元には#宇宙と名のつきそうなイベントや話が舞い込んで来るようになったわけです
当時の私はよく同期から、そんなに人に会いまくってアイツは生き急いでいるなんて言われていました。(言われていたらしい)
人に話すことで宇宙と自分の関係について問われることが増え、その度に自分にとって宇宙とは何なのか、初めて考えるようになりました
その度に意味付けも変わってきました
(宇宙の話をすると長くなるので、また別のブログで書きたいと思います)
そういうわけで、今まで自覚もしなかった閉じられた世界で生きてきた私の高校までの時代から、一気に世界が広がったわけです
ここで私は他人の影響を受けやすいということ、異様に感受性が強すぎること、人の評価を気にすること、を考慮せずに人に会いまくった結果、多分自分を見失いました。
おそらく自分が何者になりたくて、足掻いていたのだと思います
でも、この現象はカリキュラムのない独自の問いを設定して全学部の授業を組み立てるという稀な学部環境では、一度は通る道だと先輩から聞いていました。
それが、形が違えど自分にも訪れたわけです
しかし、結局何者にもなれないのだと悟ります
そうすると少し気が楽になったような気がするのですが、最近それはそれで不利益だということも悟ります
大学3年生の秋から1年間交換留学を今しているわけですが、同期は就活真っ只中なわけです。自分もボスキャリなんかに行ったりして、片足突っ込んでるような状態にいるわけですが、自分を何者であるか伝えるスキルはある程度必要だということ。
また、ビジネスの世界に置いて何者かもわからない人間に仕事を任せられないということ。そして信頼関係を築きにくいということ。
なんていうことを少しずつ肌で実感しながら、言わずと知れた自己分析ってなんだかんだ必要なんだなあ、となんとなく思うわけです
と言いつつ、自己分析ってとってもエネルギーがいるということを私は既に大学一年生の夏に知っています
(これは当時、外向性の塊だった私が内向性を60%くらいまで高めた日米学生会議という名の国際交流プログラムの影響なのですが、まあこれもいつかブログで紹介できたらいいなと思うわけです)
そういうわけで大学3年生にもなり年末を控え、そろそろこの世での生き延び方を真面目に考えなくちゃいけない、この待ってくれないこの時期に私はまた自分に迷子しているわけです
留学して2ヶ月、意外と自分て環境適応能力ないんだなあとか思いながら、
自己理解が浅い上に感受性が強すぎる私という人間が、急激に新たな人間関係を必死に構築しようと人に会いまくる現象を経ると、このようになるわけです
迷子。
でも、これは一種の自分を再構築する機会だとも捉えることができるわけです
人間関係を色に例えるなら、自分は今、あらゆる他者や外国の空気、建物、刺激を受けまくったそれらが混ざり合うような混ざり合わないような、虹色のような暗黒のような、調和しそうでしていない、でも調和しているような、そんなグラデーションを一挙に抱えてしまっている状態なわけです
(↑ここの頭の中にあるイメージをもうちょっと言葉にする努力を割きたいところですが)
まあ
結局、自分と他者は一線の線引きで区切ることなどできないということです
「自分は、自分。他人は他人。」
考え方としては、とても有りだと思います
自分を生きやすくしてくれる考え方なら、率先して取り入れた方がいいです
でも、これはあくまで自分を生きやすい方向に持っていくための考え方であって、事実ではないわけです
私はおそらく今、真っ白なパレットなんです
いや、でもそれはただの一元的な真っ白なパレットじゃなくて層になっている、そんな感覚。その真っ白なパレットが新たな刺激や出会いによって色づいていく感覚。混ざり合っていく感覚。その流動性は時に激しく、時に勢いを止めて留まって、私が消化しきれていないまだ私じゃない状態なのに如何にも”私”であるかのような振る舞いをしてる、そんな状態がきっと、今もう一度感じている、「自分に迷子」という感覚なのかもしれない。
ここでおそらく、生き方を学んできた大人はいうのだろう
自分の軸を持つことが大事と。
確かにそうかもしれない、などとふと思ってしまう。
私はこのグラデーションで再び色づいたパレットから、新たな自分を再構築し、その層になった奥底にある自分の声に耳を傾ける
一度色づいた絵の具は消せないけれど、自分の心を描いていく、そんな感覚を味わえるのはきっと、人に出会っているから。新しい環境で挑戦しているから。
そんな風に思ったら、少し気持ちも軽くなるわけです
よく自分の周りの5人が自分を作るとあるけれど、要はどの絵の具を組み合わせて自分という人間を更新していくかということなのだろう
あくまで自分的解釈だけど。
ただそれはそれで、決して単色ではなくって混ざりきってない色が共存している人もいるかもしれないし、真っ白に見える表層の色の奥底には黒があるかもしれないし、人間の数だけ人生があって、唯一無二の辿ってきたものがあるからそれは自然なこと。
これがきっと、その人にしかない色なのかもしれない。
個性と言い換えられるものなのかもしれない。
未来を描いていくというより、自分の内側を描いていく感覚。
自己紹介は変わってもいい
自己紹介が簡単にできない時こそ、自分の声を聞く時なのかもしれない
すごくエネルギーがいることだけど、
この2ヶ月間の環境や人間関係の変化によって自分のパレットにどんな変化が起きたのか、今どんなグラデーションで、どんな色が存在しているのか
見つめて、耳を傾けて、
そんな2019年の締めくくりにしたいなと、思うわけです
気づいたら3600字近く綴っていたわけですが
最後まで見てくださった人がいれば、ありがとうございます
ではまた明日。
2019.12.15.Münchenより